自分を振り返ってみる
文章とは面白いもので、口で発するときには出てこないような言葉が出てきます。
会話と違って、聞いてくれる相手のことを考えなくて済むため、精一杯自分と向きあって言葉を考えることができます。
そして、ここはインターネット上で誰かが読んでくれるかもしれない場所。
私は誰かのためでなく自分のために文章を書いていますが、だれか読んでくれるかもしれないよ思えるだけで、誰かに話を聞いてもらっている気分になります。
この文章が誰かの暇つぶしにでもなれば幸いです。
小学生時代
私の子供時代を一言で表すとすれば、「違和感」だ。
私は男であり、世間には男らしさと呼ばれる基準のようなものがある。
小学生のころ、男子は漫画やゲーム、女子は人形やぬいぐるみなどに興味を持つという傾向があると思う。
私はゲームや漫画も好きだった。それと同時に可愛いシールやストラップを集めるのが好きだった。
周りの男の子が気にしないような花や動物に立ち止まり、愛でるような子供だった。
小学生のころ、だれだれが好きというものがあったが、クラスの可愛い女の子もスポーツができる男の子も同じように魅力的に見えたのを覚えている。
中学時代
中学生に上がり、私はテニス部に入った。
地区では、周りからそれなりに評価されているようなチームで、私はそこそこ運動ができたので試合にもよく出させてもらっていたのを覚えている。
部活は土日もあり、土日は午前中で練習が終わった。
同じ部活の友達は、練習後に友達の家に集まりゲームをしたり漫画を読んだりしていた。
もちろん私もその子たち同様そういうことをしたが、女子の友達と遊ぶこともあった。
ショッピングモールに行き雑貨屋さんや文房具屋さんで可愛いものを買ったり、アクセサリーを見たり、とても楽しかった。
この時期ぐらいになると、心身ともに男子と女子の明確な違いが出てきて、皆それぞれにその成長に合わせていろいろ経験していく。
こうあるべき姿というものに向けて。
私は当時同じ部活にあこがれていた先輩がいた。
彼はスポーツも勉強もできて周りからも好かれているのに、どこかやんちゃな雰囲気がして
優等生なのに、「優等生としてあるべき姿」から外れていている気がして、そこにひかれたのだ。
先輩は帰る方向が一緒で、いろんな話をしながら帰ったのを覚えている。
たまに先輩の家に遊びに行ったこともある。
みんなから好かれている先輩が自分と一緒にいてくれるのが楽しかった。
ある日、私が上記のような女の子の趣味を持っていることや私の先輩への目線から
先輩への私の気持ちに気づいたらしい。
家に呼ばれて、そういうことをした。
服の上から胸やおしりを触られ、いろんなことをした。
当然、そんなことを誰かにされたのは(男女ともに)初めてで、怖かったことを覚えている。
それと同時に、憧れの先輩が自分に夢中になっていることがすごくうれしかった。
今思えば、思春期の有り余る欲望をぶつけやすかった相手が私だっただけで、特に意味はなかったんだと思う。一瞬の気の迷い。
事実、先輩はその後女子と付き合い始め、私はそれ以降そういうことはなかった。
部活を引退して高校受験を迎えたとき、私は制服を設けていない、私服の高校を選んだ。
「らしさ」というものから解放されたかったからだ。
家の近くの高校は、そこそこの進学校で制服も立派だったし、私の成績なら夏休みの時点でA判定だった。
しかし、私の中学校からそこに進む人は20人近くいて、周りと違うこと特別なことを求めた私は、その上のレベルの高校を目指した。
夏の時点では到底届かず、それまで塾に通ったことがなかったので、必死に勉強したのを覚えている。
当時、それなりにまじめに授業を受けていたので、周りの先生が放課後にも勉強をみてくれたりプリントを作ってくれたりしていた。
受験生時代は勉強だけでなく、それまで部活に追われてできなかった遊びをたくさんした。
友達と夏祭りに行ったり、映画を観にいったり、カラオケに行ったりした。
この時期は、ものすごく音楽を聴いていて、それが今の自分のルーツの一つになっていたりする。
はっきりと覚えてはいないが、最後の最後まで判定はCだったような気がする。
この高校に行けないなら、ほかはどこでもいいと思っていたので、特に不安もなく受験会場に行ったのを覚えている。
結果は無事合格だった。
憧れの高校での生活を迎えることができること、自分の努力が報われたことで人目もはばからずに泣いた。
今思えば、これが人生において最初の成功体験で、受験期間はつらいこともあったが、やるべきことと好きなことをバランスよくやれて、それが今の自分の行動原理の一つになっているかもしれない。
「やるべきことと好きなことを、楽しめる範囲で続ける」
高校時代
憧れて入った高校だったが、はっきり言って良い思い出はない。
先述のように、中学時代はそこそこの部活にはいっていたがいい成績が残せず、
自分には上に行くことができないことがわかった。
なので、高校では帰宅部に在籍し、好きなことと勉強を程よくやっていくつもりだった。
私の高校では、文武両道が良しとされ、部活をやっていなかった自分は少し居心地が悪かった。
そんな状態で半年がたったとき、ハンドボール部に所属していた友達から熱心に誘われ、ハンドボール部に入った。
これまたそれなりの強豪校で、地区では優勝か準優勝が常だった。
また、伝統がある部活であり、礼儀にも厳しかった。
不本意ではあったが入部したからには、熱心にやろうと生きこんだ私は、二年になるころにはレギュラーとしてベンチに入り、時折試合に出してもらった。
そのころからだろうか、先輩や同学年の数名が口をきいてくれなくなった。
多分嫉妬だったのだろう。私の地区ではハンドボールが盛んではなく、部活でも全員初心者だった。
私も初心者だったが、秋から入部した人間が春にはレギュラーに入ったことが気に食わなかったのだろう。
片づけを押し付けられたり、練習メニューの連絡をしたときに無視されることがあった。
もちろん悪い先輩ばかりではなくて、私が追い越してしまった人の中でも、練習に付き合てくれたり、アドバイスをくれる人はたくさんいた。
だからこそ耐えられたんだと思う。
そんなこんなで部活を続け、上の代の先輩が引退した二年の夏。
私は、先代キャプテンや先輩からの推薦で、キャプテンに任命された。
途中入部の私が、キャプテンに任命されるなんて予想していなかったが、
遅れを取り戻そうと必死に練習したこと、後輩の面倒見がよいことが理由だったらしい。
これが気に食わなかったらしいのが顧問だ。
副顧問が二人いて、その二人は納得してくれたし応援してくれた。
しかし、先ほども言ったようにうちの部活は伝統を重んじる場所だったので、
途中からはいた人間がキャプテンとなり部の中心になることに否定的だった。
当時、うちの高校でのハンドボール部は、その礼儀正しさや練習に対しての取組みからベテランの先生から大きな期待をされていた。
昭和の体育会系のノリが好きな人立ちである。
そういった周りの先生からも君なら安心して任せられるなどの期待の言葉をかけられ、うれしかった。
顧問の先生から認められるように、先輩たちの目標を達成するために必死の毎日だった。
常に、自分の部活だけでなくほかの部活からも手本とされることを求められ、とても窮屈だった。
それでも試合で勝った時は泣くほどうれしかったし、OBの先輩から頑張りを認められたときは、何とか食らいついて頑張ろうと思えた。
私の代になってから新人戦を迎えた、ある週末の3連休に合宿が行われた。
それがきっかけだった。
後輩の女子マネージャーが男子部員の部屋に来て、差し入れのおにぎりを持ってきたのだ。
そのとき、話が盛り上がり騒がしいことに気づいたのか、顧問が私たちの部屋に来て
「なにをやっている!!」と怒鳴った。
どうやら、男子部員がマネージャーを部屋に連れ込んだように見えたらしい。
必死に弁解したがどうしても信じてもらえず、合宿は二日目の朝で中止になった。
その後の平日、練習前に顧問のいる社会科室に向かい説明した。
しかし、先生は信じてくれず、
「だから君にキャプテンをやらせたくなかった」と言われた。
頭が一瞬で真っ白になった。初めからすべて誤解なのに、
そもそも仮に本当に女子を部屋に連れ込んでいたとしても、キャプテンである私だけの責任ではないはずだ。
君が、キャプテンとしての自覚がないからだなどの言葉をかけられた。
その後、
「君がキャプテン続けるうちは俺は顧問をやらない」とまで言われた。
それまで必死でしがみついてきたものが全部否定され、急に馬鹿らしくなった。
このころ、何を食べても味がしなくて体重が急に落ちたり、朝起きることができなくなり、学校を休みがちになった。
そして、私を心配してくれた先輩や副顧問から、
「自分の体が大事だから部活のことは何も考えなくていい」といわれ、
私は部活をやめた。
先の通り、伝統のある部活だったため、周りの先生から責められることがたくさんあった。
思い出したくないようなこともたくさん言われたし、正直ふさぎ込んで高校に行きたくないとさえ思った。
しかし、部活をやめた自分が悪いのだからと必死で高校に通い続けた。
部活をやめたこの時期、いろんな漫画やアニメを見て、とても充実していた。
すぐ分かれたが、彼女もできた。
休日は友達や家族と出かけ、心から安心して生活できた。
好きなこととやるべきことをバランスよくできていた。
また、当時の担任の先生が英語の先生で、私を心配した先生はこまめに声をかけてくれたし
放課後に英語を教えてくれることも多かった。
ここで英語を勉強したことが今の自分の支えになっているのだが、それはまた別の場所で。
私は高校での成績はあまりよくなく、授業についていくので必死だった。
高校で自分より賢い人がたくさんいることを知った私は、それなりに勉強した。
私は、学歴や偏差値などに興味がなく、いけるところに行こうと思っていたので
大学は自分の科目で入りやすい私立の大学を目指した。
「部活もやめて大学も中途半端なとこを目指すのか?」と先生から言われることも多かった。
はっきり言って地獄だった。声を殺して必死に生きて卒業した。
この時期に周りの大人からかけられた言葉は私の心を歪めるには十分だったと思う。
子供時代を振り返って
今振り返ってみると、子供時代の性別や高校での部活ややめた後の生活など
かなり無理をして生きていた。
人によってキャパシティが違うのに周りの期待や重圧に合わせたり、無理に周りに追いつこうとしたり、自分の限界以上のことをやっていた。
限界を超えて頑張るのも大事な時もあるが、常にそんなことをやっていたら心と体が悲鳴を上げる。
そのことを身をもって10代のうちに実感できたのは、今後のことを考えるとよかったかもしれない。
特に高校時代は、勉強についていくので必死でキャプテンとして周りの期待に応えるのに必死でかなり無理をしていた。
それを難なくこなせる人もいるが、私にはその器はなかった。
続く。